投稿日:2020/05/01
突然ですがブログ始めようと思います!!!
Facebookはたまに更新してますが、もっとお仕事での出来事や大工の現場作業の事、仕事に関すること、関係ない事、全然関係ない日常など、、、何でもオールマイティに書いていこうかなぁと思っています。
って言ってもリフォームや現場に関することがメインになると思いますが。
2週間に一回?
いや、1週間に1回は更新しようと、、今は、、思ってますのでいつまで続くか、、お楽しみに!
やっぱり初めは河野雅輝の生い立ちなんか書くもんなんですかね??
それでは、
本名 河野雅輝ですよね(-_-;)
1974年2月11日(建国記念日)、大阪府箕面市で生を享ける。
幼稚園、小学1年生の8月?9月?まで大阪で過ごす。
たまたま去年写真整理してたら出てきてスマホで撮ったその頃の写真があったので。。
泣き虫な幼少期、3歳上の兄に泣かされてばかり😢
その秋から父の転勤で石川県小松市に移り小・中・高校生活を送る。
小学4年生で兄の影響で少年野球を始めるも守ってはライトフライをおでこで受ける、、ボールを追いかけ鉄棒に頭をぶつける、、、打席に立てばフルスイングの三振ばかり、、、などなどセンスの無さが開花🌸
小学校で野球に見切りをつけちょっと足が速かったので中学では陸上部に入部するも年間10cmずつ身長が伸びる成長期(中学入学時は141.7cm!なんとか172cmまでは伸びたがそこで頭打ち)、成長期で膝が痛くなるオズグット病?であまり走れず筋トレばかりの日々(言い訳、、、)、お蔭で腕は太くなったがもちろん結果は残せず。
高校は進学校に入学、陸上部に入部するも1か月程で退部、全く勉強もせず帰宅部。気ままなバンド活動をしたりしなかったりの日々。
そう、高校1年の10月に母が急性心不全で他界、、全く家族の誰も想像もしてなかった出来事。
記憶が正しければ母が亡くなった数日後に母宛に毛皮のコートが届いた。
父の仕事も順調だったのか無理したのかはわからないけど、母が欲しがっていたコートを亡くなるちょっと前にオーダーしていたみたいだった。
そのコートはどうなったかは覚えてないけど、、、
って、重い話になっちゃったけど、今思えば母の死は大袈裟に言えば良くも悪くも人生のターニングポイント、生と死、日常の幸せってことを強く思った出来事だった。
でも実際はその後も父には迷惑かけてばかりで成長した訳ではないんだけど。
で、高校卒業後、またも親に次は金銭的負担をかけ大阪のコンピュータ専門学校に進む。。。
親が大工だったわけではないので、まだまだ大工のダの字も頭にない時代です💦
ご想像通り、、、? 大阪でも勉強せずパチンコ屋さんの店員やバーテンのアルバイトをしながら楽しく過ごす。この頃は将来BAR出したいなぁなんて思ってました。
卒業後は大阪で就職するつもりだったものの成績は悪い、なんの資格も無い、おまけに就職氷河期、、、どこにも採用されず帰郷。
帰って来てからは日雇い労働・訪問販売・イベント会社・配送業・ショットバーの雇われ店長・広告代理店など転々とし、手に職をつけたいなぁと思っていたところ23歳の時にたまたま職安で見つけた工務店の大工職にひかれ面接を受け見習いとして採用される。
何年か経ってから聞いた話では1か月ももたんやろうと思われていたらしい、、、(-_-;) なんせ大工の面接にリクルートスーツ着てネクタイして行きましたから(笑)
がっ!当の本人は入って1週間で「これぞ天職や!」とやる気満々で仕事が楽しくて仕方なかったですねぇ!(笑)
やったことが形になっていくワクワク感や自分の力量があからさまに結果となり形として残る緊張感や責任感。もちろん初めは簡単なことしかしてませんでしたが。。。
学歴・職歴とも建築には全く無縁の人生を送ってきた自分が23歳にしてまさかの大工になるとは夢にも思ってませんでしたよ。
人生わからんもんですよね~ だから面白い!
って事で、ザックリと大工になるまでのグダグダな生い立ちでした。
切りもいいので今回はここまでにしようかと。
目を通していただいた方、ありがとうございました!
次回は大工になってからのアレコレ?
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